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元首相が30年以上、朝の駅前に立ち続ける理由 原点に松下幸之助さんの助言
JRの駅前で「かわら版」と称する政策ビラを配る野田佳彦首相=12月26日、千葉県
「おはようございます」―。昨年末。まだ夜の帳が降りたままの午前6時前。千葉県内のJR駅前に、背広姿をした政治家の声が響いた。 【写真】衆院本会議で安倍元首相の追悼演説をする立憲民主党の野田元首相 気温は2度。コートを着ないと凍えそうだが、この男性は平気な顔をして、自身の活動をつづった政策ビラを通勤客に配っていく。ビラを受け取ってもらえなくても、頭を下げ「いってらっしゃい」と声をかけた。 男性は、選挙を目の前にして焦っている政治家ではない。かつて、この国の宰相を務めた野田佳彦衆院議員(65)=立憲民主党最高顧問=だ。 野田氏は平日の朝、2~3時間、選挙区(千葉4区=船橋市南西部)内のいずれかの駅前に立ち、通勤客らに「かわら版」と称するビラを配布するのが日課だ。立民ベテランは「野田氏ほど『駅立ち』に熱心に取り組む議員は日本にいないだろう」と言い切る。 野田氏は選挙に弱いわけではない。これまで9回の当選を重ね、選挙区は「野田王国」(自民党関係者)と呼ばれる。では、なぜ首相も経験した大物政治家が早朝から駅に立ち、常在戦場の活動を続けるのか。野田氏はきっぱりと言う。 「私は『街頭の野田』です。その看板を下ろすつもりはありません」
■全国紙とNHKに内定
野田氏は、父が自衛官の家庭に生まれた。家族、親戚に政治家はいなかったが、幼少期から政治の存在を強く意識してきた。社会党の浅沼稲次郎委員長やジョン・F・ケネディ米大統領の暗殺事件を知り、「政治家は命懸け」と子供心に敬意を覚えた。一方で学生時代、ロッキード事件に端を発した田中金脈問題が発覚し、金権政治に失望した。「世のため、人のために政治をやっているのではなかったのか」 金権体質を批判した自民の中堅議員らが離党して新自由クラブを結成。大学生だった野田氏は、その行動に共感してボランティアとして選挙を手伝ったが、旬が去ると、議員たちはあっさりと古巣に出戻っていった。野田氏は「志がない」と落胆し、「非自民」を貫く原点となった。 一時は記者を志し、全国紙とNHKに内定をもらった。だが、「経営の神様」といわれたパナソニック創業者・松下幸之助氏が「松下政経塾」を創立すると知り、就職をやめ、塾の門をたたいた。「権力は必ず腐敗する。自民に代わる政党をつくる必要がある」。政権交代ができる「二大政党制」の実現を追い求める政治家人生が始まった。
■「皿回しして人を集めたらよい」
5年に及ぶ政経塾での研修を終え、千葉県議選への挑戦を決めたものの、その時点での身分はフリーター。選挙に必要な「地盤(後援会)」「看板(知名度)」「カバン(選挙資金)」のどれ一つない20代の若者が当選する可能性は低かった。 出馬に不安はあったが、松下氏から「日本をよくしたいという善意があれば、必ず当選する」と背中を押された。家庭教師や、プロパンガス店でのガス漏れ検針のアルバイトで生活費を稼ぎつつ、戸別訪問など地道な政治活動を行った。 ある時、公民館での集会を企画した。意気込んで座布団をたくさん敷いたが、来たのはたった一人。「これじゃとても当選できない」。松下氏に相談したら「皿回しして人を集めたらよい」とアドバイスを受けた。「皿回しする器用さはないが、人通りのある駅前で演説してみるか」と考えた。 1986年10月から野田氏の駅立ちは始まった。当時、選挙期間以外に街頭で演説をする人は珍しく、最初は皆、一見するだけだった。しかし、続けていると「頑張ってね」と声をかけてくれたり、あめやカイロをくれたりする人も現れた。訴えに共感して支援してくれるボランティアも次第に増えた。
■立てば0・5ミリでも前進する
野田佳彦氏が駅前で配っている政策ビラ。乗降客の多い駅では1日3千枚を配布するという
29歳で県議に当選し、36歳で日本新党から国政に進出。新進党、民主党と所属は変わったが、平日の駅立ちは続けた。 たとえ前日仕事で遅くなっても、二日酔いでも、風邪をひいても駅に立った。最近では、新型コロナウイルスのワクチン接種で副反応があった時も、体にむち打ち、駅に向かった。「1日でも立てば0・5ミリでも前進する。自分の都合で休んでしまったら後退してしまう」 街頭に立てば応援してくれる人ばかりではない。所属政党や政治活動が逆風の時は、野田氏に向けられる目も厳しいものがあった。 2012年12月に首相を退任した後、駅立ちを再開した。支援者によると、野田氏は見知らぬ人から「あなたが民主党を駄目にした」などと容赦ない言葉をぶつけられ、受け取ったビラをその場で投げ捨てられたこともあったという。 野田氏はたんたんとビラを拾い、厳しい声にも耳を傾け続けた。「逆風の時こそ有権者の前で説明責任を果たさないといけない。長い目で見れば、信頼につながるはず」と信じた。
■首相退任後よぎった引退
実は、首相退任後、引退が頭をよぎった時期があった。短いながら首相となり、課題に全力で取り組んだという達成感がどこかにあった。「これから政治活動が惰性になってしまうのではないか」とも危惧した。 ただ、12年の総選挙で大敗した民主党はその後、離合集散を繰り返し、野党は多党化した。自民1強が際立つ中、自身が希求した二大政党制が遠のく様にじくじたる思いだった。 この10年の野党を「私も含め挫折の連続だった」と振り返る。「このままではいけない。もう一度、政権交代できる世の中をつくりたい。せめて道筋をつけなければいけない」。引退する案は消えた。 心に残る人がいる。民主党衆院議員だった永田寿康氏。弟のような存在で親しく付き合い、ともに二大政党制の夢を追った。その永田氏は06年、偽物のメールを根拠に自民党幹部を追及してしまい、議員辞職に追い込まれた。国対委員長で上司だった野田氏も引責辞任した。 そして永田氏は、09年に民主党が政権を獲得する前に自ら命を絶った。支えられなかった自責の念と、政権交代を見せられなかった心残りが今もある。「永田氏は、今の1強多弱の状況をどう思うか。私は死んでも死に切れない」 民主党の後継政党「民進党」の解党後はしばらく無所属だったが、20年9月に旧立民と旧国民民主党が合流した際に参加した。
■「演説で初めて泣きました」
政策ビラを配る野田佳彦元首相。「駅立ち」は1986年から続ける平日朝の日課だ=12月26日午前6時半ごろ、千葉県
そんな野田氏に再び脚光が当たる機会が昨年訪れた。自民党から安倍晋三元首相の追悼演説を依頼され、10月25日、衆院本会議場の演壇に立った。 「政敵」である安倍氏の人柄を評価した上で功罪も問いつつ、「また議場で火花散る真剣勝負を戦いたかった」と訴えた。演説には、その場にいた与野党の議員だけでなく、国民にも大きな共感の輪が広がった。 演説後、駅前に立つと、通勤客から声をかけられるようになった。「感動しました」「演説で初めて泣きました」。それは、追悼演説から2カ月経過した今も続いている。野田氏はしみじみと語る。「ありがたい。政治とは言葉なんだとつくづく思います」 野田氏が世間で再評価される中、立民の一部議員からは「やはり自民に対峙(たいじ)できるリーダーは野田さんだ」という待望論も聞こえてくる。ただ、野田氏は「党に厚みを感じさせるような、チームの一員でいたい」と一笑に付す。
■10増10減「2勝のチャンス」
首相在任期間などを除き37年間続ける駅立ち。野田氏は最近、新規の駅にも立つようになった。 理由は、「10増10減」の公選法改正による新たな区割りだ。千葉県は1増になり、野田氏が立候補してきた千葉4区(船橋市南西部)が分割され、新4区(船橋市西部と市川市北部)と新14区(船橋市東部と習志野市)になることが決まった。 心血を注いで切り開いた地盤が分断される事態に、野田氏は「どちらで出るか悩ましい。まだ白紙の状態」としながらも「ライバルは自民党。強い候補が出る方に私が立てば2勝できるチャンスがある」と戦略を描く。 今まで選挙区ではなかったエリアの駅にも進出し、今春の統一地方選では両区の系列議員を1人でも多く当選させるのが目標だという。
■「素志貫徹」で続く駅立ち37年
今年も三が日が明けた4日から駅立ちを再開する。 座右の銘は「素志貫徹」。常に志を持って懸命に取り組めば、いつか道が開ける、という意味だ。 「失敗の要因は自分が諦めること。成功の要諦は成功するまで続けること」。駅に立ち続けることこそ、政権交代が可能な二大政党制へ少しでも近づく道だと信じている。
30年は、すごいですね!!! あっぱれです。
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本日は、 【元首相が30年以上、朝の駅前に立ち続ける理由 原点に松下幸之助さんの助言】について書きました。