だが夫の考えは揺るがなかった。「北朝鮮に対して日本がこれだけ情報を持っているとアピールできる」。夜中まで議論し最後は全員が夫の意見に従った。苦渋の判断だった。 この時期、当時住んでいた川崎から新潟を訪ねる機会があった。かつて住んでいた家は更地になり、ザクロと梅の木、格子戸の門だけが残されていた。既に30歳を超えているめぐみは、日本海の向こうでどう過ごしているのか。胸が締め付けられた。 ▽韓国で北朝鮮工作員と面会、板門店に立つ この年の3月中旬、お父さんと初めて韓国を訪れた。北朝鮮から亡命した工作員安明進氏と面会し、板門店にも足を運んだ。 安氏は工作員養成機関の行事で88年、紺のスーツに白いブラウスを着て、笑顔で周囲と話していた「めぐみ似」の女性を見たと語った。上官が「新潟で少女の拉致に関与」し、自身も秘密活動に従事したことも語り、涙ぐんだ。政府の拉致認定にもつながる貴重な証言だった。
横田めぐみさんのコートを手にする早紀江さん。1977年11月15日、拉致された日の朝の登校時に早紀江さんが着ていくのを勧めたコートだ=川崎市
「めぐみと早く会いたい」 再会への思いは募るばかりだった。 この時期、北朝鮮の朝鮮労働党幹部が、韓国に亡命するというニュースで現地は緊迫していた。ソウルから板門店への道中、多くの戦車や武装兵がいた。恐怖で体が震えた。 「朝鮮戦争は休戦しているだけだ」。分断国家の現実をまざまざと見せつけられた。板門店に立つと、無表情の北朝鮮兵が目に入った。遠くで北朝鮮のプロパガンダを放送する大音響が聞こえた。 「めぐみはこの向こうにいるのか」 38度線を目の前にすると悲しみがこみ上げてきた。「めぐみちゃん」。思わず大きな声で叫んでいた。応答はない。よく覚えていないが、お父さんは泣きじゃくっていたはずだ。「翼があれば飛んで行って助けたい」。娘もきっと「飛んで帰ってきたい」と思っているはずだ。 ▽広がった支援の輪 韓国から帰国後の3月下旬、同じ苦しみを抱える親らが集まり、拉致被害者家族会を結成した。お父さんが代表になり、全国各地で救出を訴える署名や講演、政府への陳情に奔走した。
横田めぐみさんの救出を訴え、自宅マンションの住民たちと署名活動をする両親の滋さんと早紀江さん=2002年11月2日、JR川崎駅前
家族会の当初のメンバーは、有本恵子さん=失踪時(23)=や蓮池薫さん(65)の両親ら9家族。同じ境遇の人が「なぜこんなにたくさんいるのか」と驚いた。新潟に住む蓮池さんの両親は、雨の日も雪の日も海岸線を夫婦で捜し回ったと明かしてくれた。私は日本地図に針を落とし「針先のどこかにめぐみがいるはず」と涙に暮れた日々を思い浮かべた。 皆、愛する息子や娘を抱きしめられなくなって久しい。苦しみや悲しみを共有し家族との再会に向け、手を取り合って動き出せたのは「救い」だった。 「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。 神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。私は決して揺るがされない」(詩篇62章1、2節) 再びダビデの言葉を心に刻んだ。息子に裏切られるなど次々と襲いかかる苦難を、神への祈りを欠かさない謙虚さで乗り切る一節だ。心の重荷が下り、勇気づけられた思いだった。 支援団体「救う会」が各地にでき、新潟時代からのキリスト教仲間も00年、東京で「祈り会」を立ち上げてくれた。
広がる支援の輪は、私にとって「やぐら」となった。新たな闘いの渦中にあって心の中で繰り返しつぶやいていた。 「私は決して揺るがされない」 関連記事はこちら https://nordot.app/964815372469354496?c=39546741839462401
めぐみさんをお母さんと会わせたいですね!!! 日本国民の夢です。